生きるために、好きになる
091:好きという言葉だけで君を繋ぎとめるのならこれ程嬉しいことはない
権力が肥大するほど屋敷は広くなっていく。奉公人として務めるガイが受け持つのはルークという少年だ。燃える朱色の髪を長く伸ばしているがその流れは彼の性格のようにまっすぐ伸びている。幼い頃に誘拐されたルークは防御対策としてあまり外へ出られない。暇つぶしと教育係を兼ねたガイが相手をしている。ガイは少し離れた位置から勉強中のルークの背中を眺めた。剣戟を好むから箱入りの割に体ができている方だと思う。屋敷が広いから完全に部屋に缶詰にされることもあまりない。だが敷地の境界や公共のスペースへ行くにはガイが付き添った。同じ男であるから性差を理由に振り切られることもない。ガイはある程度の信頼も得ていて、しかもそれはルーク当人から寄せられるものさえ含んだ。
手元の本へ視線を戻した途端にルークの叫び声がして目を上げる。どうやら癇癪を起こしたらしくて立派な装丁の本や帳面を机から放り投げている。ペンや洋墨の瓶を倒されては後片付けが厄介なのでガイは慌ててルークの元へ行く。
「どうした?」
「飽きた!」
拗ねたように唇をとがらせるのをガイは曖昧に笑った。聡明であれば好奇心は高い。狭くないとはいえ一定の場所の行き来しか許されないことに対する不満は時折こうして爆発する。ガイは落ちた本や帳面を拾った。帳面は途中まで整然と文字や数字の羅列が並ぶのにいきなり書き殴るようにめちゃくちゃになっている。だが今日はおとなしい方だと心中で呟く。ひどい時には本や帳面を破り捨てる。本は装丁も中身も無事だし洋墨の瓶も倒れていない。尖ったペン先が絨毯に引っかかっているのが不穏だが気になるのはそれくらいだ。ガイは我慢強く揃えると汚れを払ってルークの前に戻した。まだ課題が残ってるみたいだな。もう飽きたよ。ルークは歳より幼い口調でガイに甘える。ルークが生まれついた位置も地位も環境さえもがルークの知識や経験を狭める。学校へ行ったりしていればある程度の社会性が身につくのだろうが、誘拐された事件はルーク当人よりも周りに警戒を呼んだ。結果としてルークは家庭教師や専門の講師を雇うことになり、行動範囲は幼い頃から限界があった。
この血統を裏付ける朱色の髪と青碧の瞳。凛と強い眉筋は彼の利かん気の強さだ。深層の姫君とは言わないがそれに近い環境でありながらルークは奔放に育っている。
「だめだぞ、ルーク。ちゃんとやらないと。将来役に立つから」
「将来なんかどうでもいいんだって。オレ、ガイを嫁にするから」
財布とかお前が持ってても文句言わない。あ、あと食事も文句言わない。お前、今どっちにも文句たらたらだろう。ルークの衝動買いも偏食も給仕や女給を悩ませている。ルークが頬を赤くして黙るがペンを取ったり本を開く様子はない。不満気にそっぽを向く青碧の目の煌めきにガイはいつも目を眇めたくなる。だってさ、使用人たちが色々噂するからさ。あの店は美味いとか女の子が可愛いとか。なんとかっていう本は面白いとか今人気だとかさ。気になるだろ? ガイがため息を付いた。ルークの知識源は屋敷の使用人レベルからのものらしい。時折カタログがほしいとねだるのは郵送で買い物をしたいからだ。ガイは見ぬいて諫めるのだが一応上層部に報告はしておく。ガイは自分の一存で物事を決められるような位置にはいない。結果として時折カタログや商品の購入が認められて、ルークは指折り数えて配達人を待っている。
「俺を嫁にするかどうかはこの際おいておいてな」
「おいとくなよ! そこが絶対条件だぜ?! オレはガイを嫁にすんの!」
「嫁の意味判って言ってんのか?」
呆れるガイにルークが食って掛かった。一度踏み出したら容易には譲歩しない頑固さがある。
「わかった、じゃあな…俺は馬鹿の嫁にはならない」
課題やらないのもだめ。ルークは不満気に唸りながら揃えられた帳面や本を開く。後ろへ下がろうとするガイのズボンを掴まれた。ばたばたたたらを踏んで振り向くガイにルークはしれっと言った。だめ。ここにいろ。立ってろって? 椅子持ってくればいいじゃん。ガイがいなくなるならやめる。だってオレ、ガイのために勉強するんだぜ。勉強ってのはな自分のためにやるもんだよ。だからさ。ガイが嫌いなバカにならないようにオレのためにやるって。近くにいてくれるくらいいいじゃん。ガイはルークの手をほどくと椅子を引きずってそばへ寄る。ルークはニヤリと口元を弛めたが何も言わずに紙面へ視線を戻した。
ルークの潜在能力は高いだろう。気が逸れるのは集中力の欠如というより感覚が鋭すぎるからだろう。ちょっとしたものを感じ取っては興味を持ってしまう。だが集中すればちゃんと課題もこなすし将来不安になるような要素もない。ガイは気を散らさないように持ち込んだ本に目を向ける。話しかけなければ集中するだろうという安易な考えもあった。
「なぁガイ」
返事はルークに据えた蒼い目線だ。ガイの蒼い目がルークの朱色の髪を映す。
「ガイはさ、やっぱ子供とか欲しい?」
子供がほしいかどうかを話題にする年齢じゃないな、と思いながら曖昧に返事をする。正直な所その辺りの将来計画はほぼないのだ。添う相手が欲しいというならいいかな、程度の認識しかない。毛嫌いするほど子供が苦手なわけではない。女性はちょっと苦手だが。
「さぁな…出来たものを潰すような真似はしたくないけどな」
「オレはいらない。ガイがいてくれればそれでいいや」
「なんだそりゃ」
跡継ぎたるルークがそんな心構えでいてもらっては困る。ガイはオレのこと嫌い? 嫌いじゃないさ。嫌いだったら飛び出してるよ。じゃあ結婚しよう。箱入りで通ることと通らないことがあるぞ。
「籍はそのままでいいよ。オレの奥さんになってよ。毎日一緒の寝台で眠って一緒にご飯食べて一緒に仕事しよう」
どうやらこの辺りにも使用人からに聞きかじりが混じっていそうだ。そもそも一緒にできるほどガイとルークの階級差は近くない。ルークは明確に主人でありガイは奉公人だ。一緒の寝台で眠ってもただの色仕掛けにしかならない。ガイはため息をついて、それは出来ない相談だとだけ言った。案の定ルークはぶうぶう言いながらなんでだよなんでと食い下がる。
「オレのこと嫌いなの。なぁオレのこと嫌い? 好き?」
好きと嫌いの二択で感情が片付けば世界はだいぶ楽にやり過ごせる。蒼い目を眇めながらガイはお前のことは嫌いじゃないさと言った。じゃあ好き? ルークは鋭い。好きと嫌いじゃないが同じでないことを本能的に嗅ぎ分ける。ガイの唇が開く。
「好きだよ?」
途端にルークはヘヘッと笑って上機嫌になる。じゃあいいや。じゃあ、ってなに。なんでもねぇ! ルークが帳面へ戻る。耳まで真っ赤になっているルークを茫洋と眺めながら胸の奥が痛い。針でさすようにそれは明確に痛いのに傷は小さい。傷は小さくて見えないのに確実に異物はそこを引き裂いた。ガイの視界に自分の練色の髪が横切る。金髪というほど輝かしくもないが銀髪ほどに色が抜けてもいない。中途半端は逆に価値を下げるだけだ。いっそルークのように明確に色がついていればよかった。朱色の髪と青碧の目を持つルークは無垢にガイにオレが好きかお前はオレが好きかと問う。その答えにガイは全て頷く。
好きだぜ
その一言でルークは嬉しそうに口元を緩めて笑い、気がすんだと勉強に戻る。好きだと言ってくれる相手がいることの大事ささえ知らないルークは知らないが故にそれを得ている。ガイの家族はすでに亡い。思い返すのも億劫な過程を経てガイは一人になった。ありふれたことだと思う。だから誰も殊更ガイをいたわるようなことはなかった。ガイはいつの間にか一人で立っていた。いつの間にか女性が苦手になっていた。ガイが女性を苦手にする要因がどこにあるかは判らないが、あやふやな記憶の中で姉がいたことくらいは判る。だから生まれついて女性が苦手というわけでもなかったろう。喪失の経験はガイの有り様を少なからず書き換えた。
「なぁガイ」
今度はなんだと顔を上げる。唇が重なった。
「好きだよ。ほんとに好き。ガイのためならオレなんでもするよ。なんでもできると思う」
朱色の幕はひらひら舞って遠ざかる。髪の朱色に負けない紅さで火照るルークの耳が見えた。ガイの中で感情が燃えた。なんでもできるほど好きな人なんかいない。人は結局保身に走る。ガイは一人になった自分の身柄は風になぶられる枯葉と同じであると知った。差し出される手は明らかに欲望を帯びていてそれは無数にあって、だからガイはひらひら流されるふりをして誰のものにもならない。ガイはありとあらゆる手段でルークの内側へ入り込んでいて、だからルークはそれが好きなのだと思って疑うこともなくガイに、お前が好きだと、言う。
「お前は優しいなぁ」
つぶやいた台詞はこぼれた本音だ。権力と地位の高さの持続を血統で補う組織にありながらルークはどこか奔放にガイなどという存在を認めている。幼い頃の誘拐事件はルークを檻の中で育て、結果として純粋培養の少年は極めて身近な毒に感染しつつある。しかもその血清は存在しないし、あったところで少年が拒むのは目に見えた。それほどにルークはガイに入れ込んでいる。ガイは嗤った。
「なんだよ、優しいって。意味わかんね」
自分が疎外されるのを嫌うルークは唇を尖らせて拗ねる。何事にも関わっていたいという欲望は支配階級にはありがちな感情だ。ガイは曖昧に笑ってお茶を濁す。ガイの真意をルークに知らせるつもりはない。必要もなかった。
「大丈夫だって。何があっても俺はきっとお前のそばにいるから」
だからこんな柄もない台詞はきっとルークの愚直なほどの好意に触発された。ルークはじとりとガイを見てから言った。まぁいっか、ガイのホントみたいだし。なんだよ俺のホントって。ガイは笑って嘘つくからさ。どきりと、した。なんだそれ、笑って嘘つくってひどいなぁ。だってホントだもん。ルークがあげつらう。剣の稽古するって言ったのにベンキョー終わってないからダメって言ったし、偉い人が来るからダメって言ったし、オレはお前に嘘ついたことないのにお前はいつもオレに嘘つくんだから。そりゃあお前さんに原因があるだろ。だいたい訪ねてきた人がいたら無視できないだろ、不可抗力だよ。オレがガイにあげようと思って避けておいた菓子食っちゃうし。結局俺の腹に収まってるじゃないか。結果じゃねーよ、オレが、ガイに、あげるっていうトコが大事だったの!
あぁそういう、ところが。蒼い目を眇めるのをルークは不思議そうに見る。ガイってさ、なにか言いたいのに言わない時ってそういう目つきするよな。なんだそれ。気づいてないならいいや。ガイは深追いしなかった。内側を晒すわけにはいかなかったし、ルークの観察眼は予想以上だった。
「オレさぁ、ガイがびっくりするくらい頭良くなるから。あと強くなるから」
「そうだな、そうなったら俺は引退するかなぁ」
「引退したらオレの嫁になる?」
「ルークはもうちょっと基本的な常識勉強しなきゃなー」
「なんだよオレだって男同士で結婚なんか出来ないって知ってるぜ」
余計にたちが悪い。唖然としてみせるガイにルークは責めるように睨む。
「オレが言ってんのは、戸籍の移動だけじゃなくてお前の心の位置を言ってんの! お前がオレと一生添い遂げてくれるかどうかを、嫁って言ってんの!」
「添い遂げるってお前なぁ。もうちょっと大人になったらもっと素敵な人と会うさ」
「ガイが一番素敵だって」
「そういうことはさ、ちょっと薄暗くて甘く香る寝台で言うもんだよ」
ルークがぶぅ、と不満気に唸った。オレはほんとにお前が好きなのに。
目を眇めるガイにルークはもう何も言わない。痛い、と思う。ガイの痛みも歪みもルークは知らなくて、だからガイを好きになったんじゃないかって、それは偽りのガイが好きなんじゃないかって。だからガイはいつも疑っている。生きているこのガイが好きなのか、どうかを。つなぎとめている。今の生活を。食事にも寝床にも困らなくて時々こうして子供の相手をするだけでいいという生活に。この泥濘は心地よく抜けだせずに、だからガイはルークにお前が好きだというのかも知れなかった。一度覚えてしまった毛布のぬくもりは奪われてしまったらもう生きていけないだろうから。
「ルーク」
青碧の目が向く。緋色の髪が揺れた。
「好きだよ」
笑ってつく嘘などと優しいものであればよかったのだと、切に思った。
俺の世界はもう暗く閉じていて、だから誰も来てくれない。そう思っていたのに。
ルークの顔がにかっと、笑う。
ごめん。
好きだという鎖で俺は君にしがみついて貪り食らうだろう
ごめん
《了》